さて、入院してからは数日も経たないうちにこの入院生活慣れてしまった。
いや、タイムスケジュールはどうしても守れなかった。

朝7時ぐらいに起きて、夜10時には就寝。
いままで、夜更かしばっかりしていた自分にとって、とても苦痛であった。
だからこそ、今の自分のもっとも大きな支えになるものを見つけた。

ラジオだ。

このHNを見てわかると思うが、自分のラジオ人生の出発点こそ、この瞬間だった。

病室は9時以降はテレビが自動的に消える仕組みになっている。そのため、残り1時間の就寝時間は雑誌やボードゲームなので潰すしかない。
自分の場合はまさにラジオであった。

テレビも見れなくなり、微妙な蒸し暑さのせいで全く眠れなかったため、試しにラジオをつけてみた。

聞こえてきたのは当時STVラジオで人気のあった『スーパーランキング(通称スパラン)』だった。
自他共に認めるテレビっ子だった自分にとって、2人のパーソナリティーの日常的な雰囲気を出しつつ進めていく番組の進行や合間のトークの面白さ、リスナーが直接参加するコーナーなど、テレビとは明らかに違う面白さがあった。
これをきっかけにラジオ番組に見る見るうちにはまっていくのだった。

さて、そんなこんなで、夜は氷のうを借りて体を冷やしつつ、またある夜はナースステーション前の談話室でウォークマンを持ちつつ、ラジオを聞いていた。
では、昼は何をしていたのか。
立ち読みである。
入院していた札幌医大附属病院の2Fに大きな売店がある。
その隅っこに本がある程度陳列されていた。
自分はそこで時間を潰していた。
ドラえもんなどの単行本やゲームの攻略本しか読んでいなかった。
たまに病院内を探検していたこともあった。
地下2階に行ったが、あまりの気味の悪さに怖くなってすぐに舞い戻ってきた事もあった。
日常に関しては、あまりの暇さに頭が狂いそうだったのは確かだ。
でも、居心地はすごくよかった。あんなにまとまった『なにもない』時間はもう2度と取れないだろう
なにもしないこと、1番難しかったような気がする。
実際に入院した脳神経外科の病棟は9階だった。
初めて入った病室はドラゴンボールに出てくる精神と時の部屋に似ていた。
棚やテレビ、機械とかを除いて全てが真っ白。
カーテンはクリーム色だったけど、部屋の白さのインパクトが強くて、入ったときにはわからなかった。
窓から見える風景は朝6のお天気カメラと同じだったことに感動したことを覚えている。

入院すると、患者さんや看護婦の方と仲良くなっていく。
そのなかでも、同じ病室に大学生ぐらいの年齢の人がいた。
本名は出せないが、その人は年齢も近いことがあって、よく話した。

そして、その人に入院している友人を教えてもらった。

3つぐらい隣の女性病棟に平然と入って行き、窓側に寝ている女性に話しかける
見た瞬間にショックを受けた。
すごくキレイな人だった。けど、髪の毛がないのかベリーショートにしているせいなのか、頭に赤いバンダナをつけ、医療用の白いマスクをつけていた。
なによりも、顔が絵の具のように真っ白だった。

行動や生活ぶりからは病人らしさは微塵も感じさせないほど、元気な人だった。
自分の持っていたカセットテープを貸したりだとかしてた。

自分が退院してから、まるっきり交流はないので、今何をしているかは知らない。
でも、知り合いが全くいない環境でこの2人がいたことが大きな支えになっていたのはまぎれもない事実。
いつか会ったら、お礼が出来たら良いなぁ。
それから数日後、札幌医科大学附属病院に両親といった。
重大な病気である事は自覚していたのだが、いや、自覚してなかったからなのかな。あまりにも、あっけらかんとしていた。
両親のこわばった顔とは対称的に。

病院が見えた時、単純にびっくりした。
たしか12階建てだったその建物は、「市」といっても田舎同然のところに住んでいる自分にとっては、あまりにも大き過ぎた。
新鮮な驚きだった。まるで、修学旅行に来ている気分だった。

で、実際に診察を受けた。それは今まで受けた診察や検査と同様のことをやるだけだった。別に大きな変化があるわけじゃない。
まぁ、血液検査がちょっと怖かったかな、ぐらいだ。

診察終了後、3人で診察結果を聞く、
はずだった。

医師から診察結果を言われる直前に、部屋から出るようにいわれた。

当時の自分はあまりにも無知過ぎた。
でも、頭がカラッポな男でも、『自分だけ結果を知らされず、両親だけが聞く。』このことがどういう事を意味するのかが充分に理解できた。
相変わらず楽天的だったから、本当はあんまりわかっていなかったのかもしれない。

でも、入院して治療とか手術とかする事は簡単にわかった。
恐怖でもない、不安でもない、かといって楽しみでもない、喜びでもない、
なんとなく感じた浮遊感はなんだったのだろう、
今振りかえって思う。

診察から数日経った4月2日、自分は入院する事になった。

(まだ終わりません。いつまで続くんだろう)

病気(続き)

2003年9月2日 病気
1ヶ月くらい入院したのにも関わらず、ろくに検査も行なわれずに退院した。

このとき、自分の中では『ただの事故でそんなに大きな問題じゃないんだな』という認識であった。

それから、自宅に戻り、普通に生活をしていた。
ちょっとだけ勉強をして、長い時間遊んで、寝るというサイクルを繰り返していた。
普通の中学生の生活を続けていたのだが、

悪夢は突然やってきた。

ある日、家族と居間でテレビを見ていた。
そこでは、他愛もない会話がある。
自分もしゃべっていた。

突然声が出なくなった。
考えている事もあるし、話そうとしている。
でも、声が出ない。
いや、声の出し方を忘れてしまったような感覚に陥った。
小学校の理科の実験で使う空気鉄砲の弾が詰まった感じなのだ。弾をパイプの先に入れ、反対側から空気の圧力を掛ける事によって、弾が飛ぶ。空気についての勉強をするための教材キットだ。
さっきの空気鉄砲の発射の原理が声が出る状態だとすれば、自分の声の出ない状態はどんなに圧力を掛けても、弾が発射されずに中の空気が抜けていくような感じなのだ。

数分後、元に戻り、普通に話す事が出来るようになったが、
しかし、自分も家族も危機感を感じずにはいられなかった。

数日後に脳外科の専門病院で検査を受けた。
血液検査から脳波検査、MRIという磁気を使って、脳の状態を調べる検査まで、午前中から夕方まで検査をやった。
そして出た結論は『脳腫瘍の疑いがあるので、札幌医大のほうへ行って見て下さい』というような内容だったと思う。

とにかく、そういうことだった。

前の病院が、あまりにも自分に対して無関心過ぎたのがおかしいくらいの状態だったそうだ。
MRI検査はレントゲンのような感じで、頭の中を調べられる。
その検査で出来た写真を見てびっくりした。
脳の中に明らかに異物があったのだ。

どの位置にあったかは忘れてしまったが、あのインパクトは忘れてはいない。

とにかく、札幌へ行かなくては行けない理由は充分過ぎるほどわかった。
いや、理解させられた、という表現が正しいのだろう。

3学期の終業式が終わって、数日後に札幌へ向かう事になった。

(まだつづきます)

病気

2003年9月1日 病気
私は脳腫瘍だった

上の漢字3文字をどう読むのか、
私はこの病気にかかるまで、この字を全く見た事がなかったし、見ても読めなかったと思う。

脳腫瘍(のうしゅよう)
通称 頭のガン
名前の通り、脳内に腫瘍が出来る病気。これによって、言語障害などの後遺症などが出る可能性があるとても危険な病気である。
細かくは自分でもわかっていないのだが、『頭のガン』と呼ばれているように、無知な人でも危険だとわかる病気だ。

自分はその脳腫瘍に掛かり、腫瘍を除去するために手術をした事がある。

症状が出たのが、中1の冬休み初日だった。
朝早くに起き、アニメを見たあと、また寝た。
そして、午前10時。また起きた。
さすがに眠くはなかったので、洗面所で顔を洗おうとした。

洗おうとした。
洗おうとしたのだが・・・。

気がついた時には、とある病院内にある救急センターにいた。
裸同然の格好でベッドらしき物の上で横になっていた。

なぜ?
なんで俺、こんなところで寝っ転がってんだろう。
何、この格好。
ていうか、ここどこ?

自分の中にある『?』はよそに、自分は入院する事になった。
このせいで、自分の冬休みはふいになった。

(つづきます)

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

日記内を検索